南京大虐殺とは

 1937(昭和12)年7月7日、虚溝橋事件をきっかけに、日本軍は中国大陸への武力侵攻を開始、日中戦争となった。

 戦線を拡大していった同年12月には、中国のそれまでの首都・南京を攻略、占領。この前後に日本軍が行った、中国民間人や捕虜の虐殺、放火、女性への暴行、物品の略奪などが「南京大暴虐事件」と言われている。通称「南京大虐殺」である。

 その特徴は(1)南京周辺を中心に(2)2カ月という長期間にわたって(3)大規模かつ多様な被害が発生したこととされている。

 当時の日本の新聞は厳しい検閲の下、この状況をほとんど報道出来ず、一般には知られる機会がなかった。虐殺を報道したのは『ニューヨーク・タイムズ』など米英の新聞だった。このほか、芥川賞作家の石井達三が『中央公論』特派員として現地に行き、1938年の同誌3月号に書いた「生きている兵隊」では、日本兵の虐殺の様子などが描写されている。石川達三はこれが原因で検挙され、有罪判決を受けた。

 戦後の1946年5月から開かれた極東国際軍軍裁判(東京裁判)で、ようやく南京大虐殺が取り上げられた。以降、学者や作家、新聞記者らが真相解明に取り組むようになった。

 これに対して、1970年代初めに、一部の評論家から「虐殺はなかった」などと反論が出たが、当の元日本兵の中から虐殺経験談が上がるようになった。その後、虐殺の事実は認めながらも虐殺数を少なく見積もって「大虐殺という程の規模ではなかった」と主張する「虐殺少数派」が登場する。以降、虐殺数や投降した捕虜の扱い、便衣兵(民間人の服を着た中国人兵)の存在などが論争になってきた。

 虐殺数の見積もりは、中国側は30万人、一方の「少数派」は数万人を挙げる。例えば、旧陸軍将校の親ぼく団体・偕行社の『南京戦史』(1989年発行)は、戦時合法的な殺害者数1万6000、戦傷病死を含む戦死者数3万の計4万6000人と記している。

 これに対して、研究の第一人者、洞富雄・元早大教授は「南京城内外で死んだ中国軍民は二十万人をくだらなかったであろう」としている=『決定版南京大虐殺』(徳間書店)から=。

 1980年代には、日本軍の中国「侵略」の表現に当時の文部省が難色を示したり、女性への暴行の記述について削除させるなどの教科書問題が表面化、、外交問題にまで発展した。石原慎太郎・衆院議員が米誌『プレイボーイ』で「(南京大虐殺は)中国人がつくり上げたうそだ」と発言、中国側から抗議を受けた例がある。

 1997年には米国で『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』という本が出版され、50万部以上が売れた。しかし、不正確な内容であるとして、斉藤邦彦駐米大使が“反論”したり、それに対して在米中国大使館が再反論するなど、外交問題に発展した。

 論争の中心は犠牲者数である。実は決定的な数字がないため、30万人説から数万人説まで幅広い。

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