(3)12月17日

入城式典の陰で一斉掃射

 六十五連隊を中心とする最初の虐殺から一夜明けた1937年12月17日は、日本軍の南京入城式だった。同18日付『東京日日新聞』(『毎日新聞』の前身)夕刊は、「青史に燦たり・南京入城式」「武勲の各隊・粛然堵列」などの見出しで大々的に報じている。

 記事によると、式典に参加する代表部隊の歩兵を先頭に砲兵、工兵、騎兵らが南京城に集まってきた。戦友の遺骨を抱いている兵士もいた。海軍も参加した。午後1時半からは、最高指揮官の松井石根大将や朝香宮らが馬に乗り、ラッパの吹奏に合わせて閲兵した。

 六十五連隊からは、寄せ集めの集成一個中隊が参列した。その1人で連隊砲中隊の元上等兵(82歳・福島市在住)は「門のそばに部隊が整列して、頭右の号令で、司令官らに敬礼した。戦に勝ったんだなあと思った」と感慨深そうに話した。

 式典が行われた南京城からいくらか離れた揚子江沿いの砂地。この日、第一大隊第一機関銃中隊の一等兵(86歳・会津地方在住)は、上からの指示で隊員数人とともにスコップで土砂を集め、少し高い土台を造っていた。他の隊でも同様の作業をしていたという。突然、陣地造りに駆り出されたのだ。土台が出来ると、10台以上の重機関銃を備えた。作業を始めた時に捕虜はいなかったが、いつの間にか大勢の捕虜が連行されてきた。

 陣地は広場を三方向から囲むように築かれた。機関銃にはすでに弾を詰めていた。警備の歩兵が銃剣を構え、隙間もないくらいに捕虜を取り囲んだ。

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 第一大隊の上等兵(81歳・耶麻郡在住)は、捕虜を連行してきたのを見た。収容先から出発する際、九州出身の通訳兵が「対岸に解放する」と捕虜に向かって大声で説明していたのを覚えている。

 歩兵砲中隊の上等兵(82歳・二本松市在住)は、捕虜を収容所から連行した。隣り合った者同士の手と手を縛り、四列で歩かせた。広場では、あちこちから連行してきた捕虜を揚子江の方に向けて並べた。ちょうど、機関銃に背を向けさせた格好だ。捕虜は30〜40歳代が多かった。10代後半らしい少年もいた。いずれも召集兵らしい感じがした。

 第三大隊の下士官(88歳・安達郡在住)は、上官から「捕虜の警備に行ってこい」と言われた。行ってみると、捕虜たちは丸太づくりで草ぶき屋根の大きな建物に入れられていた。捕虜が履いていたゲートルをほどき、これで捕虜の手を縛った。収容所を出発する際、「捕虜の数は1万5000〜6000」といううわさを聞いた。

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 陣地造りを終えたその一等兵の機関銃が射撃を始めたのは、夕やみの中に何かの明かりが見えたからだった。それが合図と判断した。最短で2メートルほどの場所にも捕虜がいた。引き金を引き続けた。途中、機関銃が故障して弾が出なくなったので、その場で分解修理して、再び撃った。

 捕虜の連行に携わった先の上等兵は、捕虜の叫ぶ「万歳」の声を聞いたと思った。ばたばた倒れるのが見えた。捕虜の警備に従事した下士官も射撃音に交じって、捕虜の叫び声を聞いた。

 「すごい声だった。多くの捕虜の声だった。1週間くらい耳から離れず、気分が悪かった」と元下士官は思い出す。

 射撃直前の様子について「殺される予感があったのか、捕虜が騒ぎ出した。撃てと言われなくても打たざるを得ない状況だった」。耶麻郡在住の元上等官がその時の模様を語った。

 捕虜は重なり合って倒れた。前夜、揚子江沿いの魚雷営(中国海軍の施設)前広場での数千人の虐殺と同様、機関銃掃射の後、生きている捕虜がいた。「銃剣で突け」との命令がまた出された。

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