(9)慰安婦

陥落後、各地に次々と

 南京陥落(1937年)後、慰安所が中国各地につくられた。第一大隊の上等兵(81歳・会津地方在住)は、上からの命令により部隊に呼び掛け、大工経験者らを集めて木材で慰安所を建てたことがある。古い民家を利用したこともあった。南京の西方、全●(「木」へんに「叔」)に慰安所ができた時、六十五連隊の兵たちは軍からもらった切符を持ち、慰安所に行った。老若問わず列をつくっていたという。「私は行ったことがないが、日本人女性もいたそうだ」と振り返る。

 醜業を目的とする婦女の渡航は、内地で娼妓など醜業を営んでいる満二十一歳以上で花柳病など伝染性疾患がない者で、北支、中支方面に向かう者に限り、当分の間これを黙認する(1938年2月、内務省警保局長の「支那渡航婦女の取り扱いに関する件」より)

 第二大隊の下士官(86歳・二本松市在住)は旧口鎮近くの向家湾で慰安婦を見た。アポジという朝鮮人の親方がついてきていた。あばら屋を見つけ、そこを仕切り、営業していた。10人ほどの慰安婦がいた。ほとんどが朝鮮人だった。20歳前の若い女性もいた。多くが日本語を上手に話せた。昼間、仕事のない時は部隊の事務所に顔を出し、兵たちと話をする時もあった。「故郷に家族が多く、経済的に楽でないので、長女の私がやってきた」との身の上話も聞いたことがある。

 下士官は慰安所で、朝鮮人慰安婦から300円の借用証書を見せられた。「借金を返せないうちは、私とアポジのお金の取り分が4対6。借金を返済すると、取り分が6対4に逆転する」と説明された。彼女たちはアポジから買った朝鮮服を着ていた。

 階級が低い兵はさほどお金を持っていなかった。それを察してか、情が移ってか、「兵隊さんにはタダで」と言っていた慰安婦もいた。

 「いい商売ではなかったから、言葉にこそ出さなかったが、きっと古里に帰りたかったに違いない」と元下士官は思いやった。

 性の満足により将兵の気分を和らげ、皇軍の威厳を傷つける強姦を防ぐ目的で(慰安所を)開設した。しかし、中国人女性への好奇心と、内地では到底許されないことが敵の女だから自由になるという考えから、日本兵は中国人女性を見たら憑かれたように引きつけられた。強姦は盛んに行われ、中国人は日本兵を見ると必ず恐れた(1938年6月、国府台陸軍病院付陸軍軍医作成の「戦場における特殊現象とその対策」より)

 第三大隊の下士官(78歳・西白河郡在住)は、強姦されそうになった中国人女性がブタ小屋に逃げ、ブタの糞を顔や体にすりつけ抵抗したのを見た。さすがに兵は手出しできなかった。この光景から、この元下士官は「女性が本気で抵抗すれば強姦できるものではない。強姦される女性は、ある程度納得しているのではないかとさえ思った」と述懐した。

 一方、三砲兵の元上等兵(80歳・石川郡在住)は自身の経験から、「兵は銃剣をつけて、鉄砲を持っている。そんな相手に抵抗できないでしょう」と話した。どんな気持ちで強姦をの問いに、元上等兵は長い沈黙の後、「日本人がそういう目に遭えば大変だが、敵国人だから何とも思わずやった」と静かに答えた。

 しかし、六十五連隊の元兵士たちの証言は、「至る所で強姦を見た」「そんな話は聞いたこともない」と、なぜが両極端に分かれた。

 支那事変地では慰安施設に関して周到なる思慮を払い、(兵の)殺伐な感情及び劣情を緩和抑制することに留意するを要す(1940年9月、陸軍省副官の「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」より)

 日本軍はこの日中戦争で慰安所の必要性を痛感、太平洋戦争前後から朝鮮人女性らを強制連行するなどして、戦地や内地に慰安婦を配置し続けた。

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