(1)12月16日

笛を合図に機関銃が火を噴く

 1937年12月16日。中国の首都だった南京の城北を流れる揚子江に面した中国海軍の施設・魚雷営(軍艦学校と日本兵は呼んでいた)の広場。日が暮れ、薄暗くなった中、日本兵の監視のもと、数千人の中国人捕虜が後ろ手に縛られて連行されてきた。

 六十五連隊第三大隊の下士官(78歳・西白河郡在住)は、魚雷営の建物の1階にあった銃眼(銃口を出す穴)から、捕虜の顔などを息ひそめて見守った。捕虜の多くはズック靴だった。

 わずか1メートル先を捕虜は左手から右手に向かって歩いていた。銃眼は腰の高さほどの位置にあるうえ、建物内部は電気もなく真っ暗にしていたため、外から内部の様子は分かりにくい。しかし、せき払い一つ出来ない。捕虜は武器を持っていないとはいえ、大人数だ。これから起こることに捕虜が気づき暴動に発展すれば、抑えきれない危険性がある。建物には銃眼が10以上あり、重機関銃の銃口が外に向いていた。

 打ち合わせ通り、殺害の開始を知らせる合図の笛がピーと鳴った。重機関銃が一斉に火を噴いた。下士官は腹ばいの姿勢のまま、重機関銃の引き金を両手で弾き続けた。ダッダッダッダッという射撃音と振動が伝わる。横からは銃弾が次々に装填(そうてん)された。疲れると座って撃った。1分間に600発、発射出来る。捕虜は右往左往する間もなく、ばたばたと倒れた。

 冷却装置として銃についている放射筒が真っ赤になった。途中、別の兵と交代しながら撃ち続けた。近くの揚子江に飛び込んだ捕虜もいたため、射撃は川にも及んだ。

 捕虜が全員倒れ、死んだように見えたので重機関の射撃が止まった。すると、倒れた捕虜の中から、あちらこちらで首をもたげる者がいた。「生きている者がいたぞ」。再び笛が鳴り、重機関銃の掃射が始まった。空になった薬きょうが山になった。

 南京陥落から4日目、盧溝橋事件が勃発して5カ月後の出来事だった。

 「1回目は30分以上、2回目も10分くらい撃ち続けたと思う」。元下士官は自宅で、ゆったりした口調で話した。

 この捕虜たちは、南京陥落に際して六十五連隊が捕らえた中国人だ。第三大隊の少尉(82歳・福島市在住)らによると、南京に近づくと多くの敗残兵が鉄砲や軍服、刀を投げ捨てたまま、立ち尽くしていた。両手を上げていた中国兵もおり、戦意は完全に失っている様子だった。

 「姿格好から、民間人による招集が多かったようだ。正規兵は素早く逃げ、その後に取り残されたのだと思った」と元少尉は振り返る。

 同年12月18日付『福島民報』には「両角部隊嬉しい悲鳴 二十二棟の大兵舎にギッシリ鮨詰め」の見出しで、捕虜の記事が掲載されている(18日付だが、記事内容は15、16日あたりのようだ)。南京敗走の1万4777人を一挙に捕虜にし、付近の兵舎22棟に押し込んだ、というのだ。「皇軍はお前たち降状者は決して殺さぬから安心しろ」と訓示すると捕虜から拍手が起こった、とも。

 しかし、日本兵にさえ十分な食べ物がない状況だった。捕虜の面倒まで見る余裕はなかった。

 元下士官は事件についてこれまであまり多くを語ってこなかった。しかし「生きているうちに、あの時の真相を」と口を開いた。

 2回目の射撃の後、警備の兵らは軍刀や銃剣を手に死体の山に向かった。

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