(12)論争

史実の発掘続く

 1937年12月の南京陥落後、日本軍が繰り広げた中国人の大虐殺について、さまざまな立場での研究論文やルポが発表され、論争となってきた。その歴史を見てみると――。

 日本の新聞は戦争中、軍部の厳しい検閲でこの事件の詳細を知らせることができなかった。

 南京大虐殺は、1946年からの東京裁判で初めて国民に知られるようになった。これを体系的にまとめたのが洞富雄・早大教授(当時)の『近代戦史の謎』(1967年)である。また日中国交回復を控えた1972年には、本多勝一・朝日新聞記者が生き残った被害者の中国人側から取材、『中国の旅』と題したルポを連載、大きな反響を呼んだ。

 これに対して、文藝春秋の『文藝春秋』や『諸君』を中心に、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)や、山本七平『私の中の日本軍』(1975年)が登場、大虐殺に否定的な見解を示した。

 1982年には、社会科教科書で南京大虐殺など戦時中の日本軍の行為について、当時の文部省が書き直しを求める教科書問題が表面化。中国政府は教科書の記述の是正を再三要求した。

 一方、旧陸軍将校の親睦団体・偕行社(東京)は、南京で実際に何が行われたのかを戦史として明らかにし、後世に残すため、機関誌『偕行』誌上で元兵士の証言による南京戦史を連載。その結果、虐殺の目撃、体験談が多く集まり、「戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量の不法処理には弁解の言葉はない」「中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と結論づけた。

 しかし、南京での不法殺害を最多で計1万3000人とし、中国側の数十万人という虐殺数には否定的見解を述べた。

 学者や新聞記者らは大虐殺の調査、研究をさらに進め、洞富雄氏らが『南京大虐殺の証明』を出版。虐殺数が数十万人規模では済まないことを示すとともに偕行社の『南京戦史』を批判した。

 福島県の六十五連隊関連では、『福島民友新聞』が1961年に「郷土部隊戦記」を連載した。この記事では12月17日の大虐殺について、中国人捕虜を解放しようとして揚子江に船で送り出したところ、対岸の中国兵が日本軍と勘違いして発砲。捕虜の間に混乱が生じたため、六十五連隊側がやむなく応戦した、と主張した。また、捕虜の多くが逃げたとして、虐殺は「四千人前後の捕虜のうち、(中略)一割前後は銃弾に倒れた」としている。

 この記事は、同新聞編『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』 (1982年)として出版された。

 そこでは、「解放への意図が、偶発的な暴走を招く結果となり、多数の死者を彼我ともに出した。こうしたことが起こり得ること自体、“戦争の悲劇”なのである。参考までに戦後の戦犯追及裁判では、若松連隊のこの事件は不問となった。故意ではなく偶発だったからである」としてある。これがその後の「自衛発砲説」の根拠となり、また、虐殺数を少なく見積もる人々に引用されるようになった。

 ところが、1984年8月8日付『毎日新聞』に、東京在住の六十五連隊の元伍長が「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴行を起こすわけない。虐殺は事実」との証言が登場、自衛発砲説に異議を唱えた。

 1990年秋の『プレイボーイ』(英語版10月号、日本語版11月号)で石原慎太郎・自民党衆院議員(当時)が南京大虐殺について言及。「日本人が何をしたというんです? どこで日本人は虐殺をしました?」「日本軍が南京で虐殺をおこなったと言われていますが、これは事実ではない。中国側の作り話です。これによって日本のイメージはひどく汚されましたが、これはうそです」などと発言、中国側から強い抗議を受けた。

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