射撃後、第三大隊の下士官(78歳・西白河郡在住)は、南京城の近くを流れる揚子江に面した中国海軍の施設・魚雷営の建物の銃眼から見ていた。重機関銃に最も近い距離で撃たれた中国人捕虜の体は、何百発もの銃弾を浴び、めちゃくちゃになっていた。向こうの揚子江側に行くほど、弾が届きにくかったのか、生存者がいたようだ。
倒れた捕虜を踏みながらの生存者探しが始まった。捕虜を現場まで連行し、銃剣を構えて警備していた兵らが、死体の山を歩いていった。
軍刀で切っていったが、折り重なって倒れているため切りにくいようで、途中から銃剣に持ち代え、動く人を見つけると片っ端から突き刺していった兵もいた。
おぼろ月夜で、死体ははっきり見えた。至るところで日本兵が銃剣を下向きに持ち、振り下ろしていた。12月の夜だから寒いはずだが、元下士官は全く寒さを感じなかったという。
山砲兵の上等兵(80歳・石川郡在住)も現場にいた1人だ。魚雷営の建物の中ではなく、広場の一角で警備のため銃剣を持って立っていた。この日の昼、命令を受け、他の兵とともに2〜3メートル間隔で捕虜の両わきについて現場まで連行してきたのだ。
捕虜は後ろ手に2人ずつ縛られ、1人が転ぶともう1人も転んだ。なかなか起き上がれないところを、銃剣で刺し殺された捕虜もいた。
広場にも重機関銃が設置されており、射撃が始まる前から、兵は捕虜の首を切ったり、銃剣で刺したりしていた。上等兵は軍刀を借りて、すでに死んだ捕虜の首を切ろうと試してみたが、途中までしか切れなかった。
重機関銃の射撃が始まると、実際に捕虜めがけて撃ってみた。生存者探しの時は、銃剣で思い切り突き刺してもみた。その数は30人ほどに上る。突き刺すと、「うーん、うーん」とうめく声が聞こえた。暗くて下がよく見えないので、適当に銃剣を突き立てていった。
14〜15歳らしい少年から年寄りまでがいた。しかし、女性は見当たらなかった。
「戦友が上海戦で相当死んだ。敵を取らないと、という気持ちがあった」と、この元上等兵は当時の気持ちを淡々と説明する。
捕虜の処分は、さらに続く。元下士官によると、今度は、生き残りの多い、揚子江側に倒れている捕虜を中心に、石油か重油の類がかけられたという。マッチか何かで火が付けられた。
当時の中国人の着ていた軍服は、綿入りだった。燃料をたっぷり吸い込んだ綿は、20センチほどの高さの炎を上げ、燃え上がった。見渡す限り、火の手が上がった。
にもかかわらず、先の元上等兵は「火が付いているのを見た記憶がない」と話しており、記憶は同じではない。
いずれにせよ兵たちは火が消えてからは、生きている捕虜を再び探し、銃剣で刺していった。周りは血だらけ。血のにおいも漂った。
上等兵は、この段階で現場を去った。残った兵は死体処理に追われ、その後、柳の枝でカギ棒を作り、体に引っ掛けて引きずり、揚子江に入れた。
翌朝、上等兵が聞いた話によると、揚子江に飛び込んで逃げた中国人もいた。また、日本兵を抱き込んで揚子江に飛び込んだ捕虜もいたらしい。その日本兵がずぶ濡れになって上がったところ、味方から勘違いされ、「この野郎」と銃剣で突かれたこともあったという。現場では、日本兵の間でも混乱があったようだった。
16日の虐殺は終わった。しかし、南京入城式が行われた翌17日に、さらに大規模の虐殺が繰り広げられた。