歩兵第六十五連隊とは

「歩兵第六十五連隊戦友名簿」(歩六五残桜会編集・1984年7月発行)によると、1907(明治40)年12月、仙台で編成、翌1908年6月、会津若松に移った。しかし、1925年1月、軍縮で解隊。1937年9月16日に軍旗を再拝授、同月18日に将校109人、下士官・兵3586人で再編成された。

 この時から南京侵攻時まで、連隊長が両角(もろずみ)業作大佐であったことから通称「両角部隊」と呼ばれた。ほとんどが福島県出身者で占められ、会津若松で編成されたため、「会津の六十五連隊」「白虎部隊」などの通称もある。

 南京侵略時の組織は、上海派遣軍(司令官・朝香宮鳩彦王中将)と第十軍(柳川平助中将)などで構成する中支那方面軍(司令官・松井石根大将)で、南京周辺に展開した。歩兵第六十五連隊は上海派遣軍の下の第十三師団に所属していた。

 同年10月には上海戦で計620人が戦死。11月の江陰城攻略戦では80人、南京攻略戦で7人の戦死者を出した。翌1938年9〜10月の大別山突破作戦では226人、1939年12月の冬期作戦では303人が戦死するなど、大勢の死者を出した。

 このため、53回にわたって兵の補充が行われた。戦争が長引くにつれ、多くの部隊が南方に回されたが、六十五連隊は、兵は順番に日本に戻りながらも、敗戦まで中国にくぎ付けにされた。

 1945年8月15日の終戦は衝陽で迎えた。26日には軍旗を焼き、同年10月3日に武装解除。同5日から約8カ月間、江西省湖口地区で抑留生活。長崎県の佐世保港などに復員したのは1946年6月だった。

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