南京に向かう途中のある集落に六十五連隊の部隊が宿泊した。南京攻略直前の1937年秋。部隊の兵はそこの住民の男ばかり20〜30人を捕まえて家の裏に集め、全員を射殺した。
翌朝出発する際、道沿いの農家が燃えているのを、この部隊に同行の三砲兵の上等兵(80歳・石川郡在住)は見た。熱くて近寄れないほどの炎だった。別の兵に聞いたところ、前日に兵がこの集落の女性ばかり集めて1軒の家に押し込め、夜その家に行き、女性たちを強姦。朝全員を殺してその家に火を放ったということだった。「どうしてそんなことを」と上等兵が聞き返すと、「抗日思想が激しい所なので皆殺しにせよとの命令があったからだ」との返事だった。
上等兵はまた、ある夕方、仲間の兵が畑で50歳くらいの女性を強姦していたのを見た。すぐそばで、この女性の子供らしい4〜5人がぼう然と立っていた。
「兵がどこかの集落に泊まると物資探しに出て、女を見つけたら必ず強姦していた。私もそうだった」。元上等兵は淡々と語った。
1938年6月、北支那方面軍参謀長から各部隊に出た「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒」は、「各地における日本軍人の強姦事件が全般に伝播し、実に予想外の深刻なる反日感情を醸成せるにあり」と指摘。「なるべくすみやかに性的慰安の設備を整え」るよう促している。
先の上等兵は行軍中、30歳ほどの女性が道端で死んでいるのも見たという。あおむけで、下半身は裸だった。局部に棒くいが差し込まれていた。兵たちが次々と通り過ぎる際、さらに棒を押し込んでいった。
雪が降る夜だった。シャツとモモヒキ姿の兵が裸足で帰ってきた。ただならぬ様子にその上等兵らが事情を聞くと、もう1人の兵と一緒に物資調達に行った先で、女性を強姦中、中国人の男性にこん棒で背中などをたたかれ、かろうじて逃げ帰ってきたというのだ。もう1人は現場で気絶したのか帰ってこないので、上等兵たちが銃剣を持って現場に走ったが、兵の姿はどこにも見つからなかった。
「特に強姦に対しては各地の住民一斉に立ち、死をもって報復せるを常としあり。従って各地に頻発する強姦は単なる刑法上の罪悪に留まらず、治安を害し、軍全般の作戦行動を阻害し累を国歌に及ぼす重大反逆行為というべく……」(同通牒)
第三大隊の下士官(78歳。西白河郡在住)は、南京攻略の市街戦である民家に入ると、寝台の上に生まれて間もない赤ちゃんとその母親が死んでいるのを見た。女性の下半身の服はめくれ、強姦されていた。
「女性が局部を出して死んでいる姿は当たり前の光景だった」と元下士官は語る。また、1人の女性を数人の兵が立て続けに暴行するのも見た。「日本兵に暴行されたといううわさが広まるのを防ぐため、暴行後はたいてい殺した」と元下士官は証言した。
荒れる兵の気分を和ませるため、慰安所が中国各地に作られたのは、南京陥落後だった。このとき、今問題になっている朝鮮人らによる従軍慰安婦が登場する。